2006年

ーーー8/1ーーー 爺ヶ岳に登る

 5月の燕岳、6月の常念岳に続き、トレーニング山行の第三弾として爺ケ岳(2670M)に登った。梅雨末期の憂鬱な天気が続く中、ワンポイントで晴れ間が予想された7月26日のことであった。

 松本と糸魚川を結ぶJR大糸線。松本を出た列車が白馬に至るまでの間、左手に北アルプスの峰峰が延々と連なっている。主な山の名を順に挙げれば、常念岳、大天井岳、燕岳、(有明山)、餓鬼岳、蓮華岳、爺ケ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬槍ヶ岳、杓子岳、そして白馬岳となる。有明山が( )に入っているのは、この安曇野を象徴する山が、残念ながら北アルプスの主稜線から外れているからである。

 都会からやって来る登山者にとって、上に挙げた山のいずれかを、日帰りで登ることはまず無いだろう。私が若かった頃は、夜行日帰りなどという言葉もあったが、今ではそのようにがむしゃらな登り方をする人は、ほとんどいないと思われる。

 その点私は安曇野に住んでいるので、日帰りで行ける山は日帰りで済ます。ある山仲間から「どうして山の中で泊まらないのですか」と聞かれたことがある。答えは時間と金に余裕が無いから。本当は山の中で泊まる方が、より楽しいに決まっている。それは分かっているが、日々の暮らしがなかなかそれを許さない。

 さて、上に挙げた北アルプスの山々は、いずれも2000メートル後半の標高を持つ高峰である。ロープウエーで途中まで上がれる唐松岳を除けば、山頂へ達するには厳しい登りを覚悟しなければならない。しかし、その中で比較的ラクに登れるのは、爺ケ岳であろう。この山の登山道は実に良く作られている。まるでスイスイという感じで高度を稼ぎ、驚くほど簡単に稜線へ、そして山頂へ達することができる。

 爺ケ岳は、私にとって懐かしい思い出の舞台でもある。初めて子供を連れて登った北アルプスがこの山であった。まだ小学生だった長女と長男と共に山頂に立った。その後、念願の家族登山を果たしたのも、この山であった。その時は高校受験で時間が取れなかった長女だけ残して、家族全員で出掛けた。この二つの山行に爺ケ岳が選ばれたのも、登り易いという理由からであった。

 下界は終日晴れていたようだが、山の上は曇り空だった。しかし視界が悪いというわけではなく、かなり遠方まで見通すことができた。梅雨の最中としては、幸運に恵まれたと言えるだろう。

 登頂を終えて下山しているとき、25人ほどの人数のパーティーとすれ違った。これほどの大人数のパーティーには、なかなかお目にかかれない。ザックに高校の名前が書いてあったので、最後尾の青年に「高校の山岳部ですか」と聞くと、そうだとの答えが帰って来た。男女の比率は、半々より少し女子の方が多かったか。いずれも大きなザックを背負っていたから、二泊あるいは三泊くらいの幕営山行であろう。名前からして、工芸関係の高校のようだった。工芸を目指す若者が、嬉々として登山にいそしむ。仲間と共に大自然のフィールドで青春を謳歌する。なんと素敵なことであろう。私は心の中で、この美しい若者たちにエールを送った。

 

画像は爺ケ岳山頂から望む剣岳、立山方面のパノラマ。右手稜線上の赤い点は山小屋(種池山荘)の屋根。視界は遠くまで見渡せたが、山々の頂きは厚い雲の中であった。



ーーー8/8ーーー 弔いの登山

 この1月に亡くなった私の父は、生前「オレが死んだら骨を槍ヶ岳の頂上からバラまいてくれ」と言っていた。自身は槍ヶ岳に登ったことは無かったらしい。しかし周囲のいくつかの山に登り、槍ヶ岳を見るたびに思いをつのらせていたようである。その願いをかなえてやるべく、8月3日早朝、遺骨の一部を槍ヶ岳の山頂に埋めることができた。

 およそ半年がかりのプロジェクトであった。この間、ランニングをしたり、裏山を登ったり、三度のトレーニング山行をやったりして、体力作りに励んで来た。それでも心理的に不安があった。と言うのは、単独のテント山行は、ほとんど経験したことが無かったからである。

 私は今までの人生で190回ほどの登山を行った。中学生の頃から登っているので、経験年数から言えば大した回数ではないとも言える。しかしその大部分は、パーティーで行ったものであった。特に泊まりがけの山行は、そのほとんどがテントを使ったものだが、ほぼ100パーセント仲間と一緒に行ったものであった。

 今回は、思い切って単独テント山行と決めた。単独であれば日程を自由に調整できるから、天気に関わる安全率が高くなる。また、夏山の混雑した山小屋を避けるには、テントで行くしかない。考えると奇妙だが、これは私にとって未知の分野へのチャレンジであった。

 現在の年齢と体力を考えれば、荷物は極力軽量コンパクトにしなければならない。となると、30年前に買ったテントは使えない。重くてかさばるからだ。また、同じく30年前に買った厳冬期用の寝袋も大きくて重過ぎる。以前は夏山でもこの重厚な寝袋を持参したものだが、今となってはそのような無駄を支える体力は無い。

 というわけで、テントと寝袋を新調した。友人から登山用品店の割引チケットを貰い受け、安い価格で購入した。ついでに中型のザックも、半額セールで手に入れた。新しいザックを買ったのも、25年ぶりのことである。

 用具は揃ったが、ソフトが今ひとつであった。パーティーで登っていたときは人まかせだった炊事を、今回は自分でしなければならない。食料計画を作るのも、あまり得意ではない。必要な分量が分からないし、メニューの組み立ても不如意である。

 不安要素を抱えながら、梅雨明けとなった。梅雨明け後10日間が夏山のベストシーズンである。間髪を入れず実行することになった。

 2日の夜明け前に軽トラで自宅を出た。上高地の玄関口である沢渡(さわんど)に着いたのが5時半頃。上高地へはマイカー規制で入れない。ここでシャトルバスに乗り換えた。上高地バスターミナルまでの所用時間は30分。

 上々の天気である。焼岳、大正池、穂高岳といった懐かしい景観が、青空の下に次々と現れる。以前ここへ来たのはいつのことだったろう。

 バスから降り、ザックを背に歩き出す。予定では二泊三日、それに予備日を一日みた。ザックの重量は16キロほど。若かった頃ならなんということもない重さだが、今ではずっしりと背中にのしかかる。

 上高地から梓川ぞいの道を登って行く。過去何度となく行き帰りをした、街道のようなルートである。途中井上靖の小説「氷壁」の舞台となった徳沢を通過する。

 この日の行程は、槍沢ロッジのテント場までにしようかと思っていた。しかし、思いの外スムーズに運んだので、また天気も良かったので、殺生ヒュッテのテント場まで足を延ばすことにした。殺生ヒュッテがある場所は、槍ヶ岳のいわゆる穂先が眼前に迫る標高2900メートルの高台。ここに至る最後の登りが、炎天下できつかった。

 (右の画像は、今回の登山ルートとなった槍沢。そろそろ河原が終わり、雪渓が現れるところ。この谷ぞいに登り、奥で右へ回り込むと槍の穂先が現れる)

 

 4時半ころテント場に着いた。早速テントを設営。新調した2〜3人用のテントは、1人で使うには十分過ぎるくらいの大きさだ。まるで山上の御殿である。その御殿に入り、持参したウイスキーを、途中の沢で汲んでおいた冷水で割って飲む。最高のひと時である。飲んだり食べたりしながら、気まぐれにテントから上半身を乗り出して周囲の景色を眺める。時々刻々と変化する夕空が美しかった 。(下の画像はテント場から見上げた夕刻の槍の穂先。左手稜線上に見えているのは槍ヶ岳山荘)

 テント生活のこの贅沢な楽しさは、重荷に耐える体力と気力を持った者への、ご褒美のようなものであると感じられた。実際のところこの山行で、全体の7〜8割を占める中高年登山者の内、テントを担いで登っていると見えたのは、私の他にはいなかった。逆に言うと、山小屋の中は中高年だらけということになる。

 酔って、満腹になって、いつの間にか寝袋に入って寝たらしい。翌朝の午前2時頃、猛烈な寒さで目をさました。震えがとまらないくらいの寒さである。原因は、寝入りしなに暑くて寝袋のチャックを開けたままにしたからであった。しかし真夏の夜にこの寒さは何であろう。それでも、閉めるべきところをしっかり閉めると、スリーシーズン用の寝袋はなんとか頑張って、再び私に眠りをもたらしてくれた。

 4時に起床。ラーメンを作って食べた。それから空身で山頂を目指した。まず30分ほどで槍ヶ岳の肩にある槍ヶ岳山荘に到着。そこからさらに30分ほどで山頂である。既にたくさんの人が槍の穂先に取り付いて、登ったり降りたりしているのが見える。私の前にも数人いて、梯子や鎖場で待たされた。そしてついに山頂。最後の長い鉄梯子を登り切ると、それまで見えなかった山頂の表面にぽっこりと顔を出す。そして驚いた。山頂はびっしりと人で埋め尽くされていたのである。

 まるで宇宙人にさらわれた地球人が、この高みに集められ、じきに到着するUFOに詰め込まれるというような、それくらい異様な光景であった。

 山頂には小さな祠がある。その台座の脇の岩の窪みに、持参したガラスの小瓶から父の遺骨をサラサラと撒いて、石で蓋をした。そして合掌をして、ひそやかなセレモニーは終わった。ようやく一仕事が終わった感慨があった。青空の下の360度のパノラマが、それを祝福しているかのようであった (画像は山頂の祠と私)。

 テント場まで降りて、撤収をした。最近のテントは便利が良い。張るのもたたむのもあっという間の出来事である。再び全ての荷物をザックに詰め込んだ。新しいザックは、今回の山行に丁度良い大きさだった。便利に出来ているし、背負い易く疲れにくい。

 この山行のために新調した装備、テント、ザック、寝袋はいずれも快適であった。ここ20〜30年間の登山用具の進歩は素晴らしい。昨今の中高年登山のブームを支えているのものの一つに、現代の登山装備の優秀さがあるとことは間違いないだろう。

 さて下山開始。一晩やっかいになったモレーン(堆積丘)の上のテント場を後にした。

 昨日と同じ道を逆にたどるのである。その行程の長さは、うんざりするほど理解している。しかし気分は軽い。危ない場所も無い。ただ、登って来る登山者が沢山いて、すれ違うのがやたらと億劫だった。

 槍沢の豊かな水流を、今日は右手に見ながら歩く。岩の間を激しく落ち、真っ白い泡を立て、時にはコバルトブルーの緩やかな淵を作る。深みの底の小石に陽の光が当たるほど、水が澄んでいる。この清涼な水の流れの永遠の繰り返し運動は、見ていて飽きることがない。

 徳沢園で昼食を作っている時、突然蜂かアブに腕を刺されて痛かった。これが今回の山行で唯一腹の立つ出来事だった。

 2時過ぎに上高地に着いた。辺りは観光客だらけである。その世俗的雰囲気は、一つのプレッシャーを私に与えた。そのプレッシャーによって押し込まれるようにして、シャトルバスに乗り込んだ。

 一泊二日の短い山行は、それにふさわしいあっけない幕切れとなった。



ーーー8/15ーーー HPの改訂

 
とかく野暮だ、ダサいと言われて来たこのホームページだが、先週一部に修正を加えた。製品紹介の一連のページである。少しは見易く、また購入意欲をかきたてるようなページになっただろうか。ご感想をお寄せいただければ有り難い。

 なにしろ不勉強なもので、格好良い、オシャレなホームページが作れない。どなたか良い参考書でも教えてくれませんか。ちなみに私が使っているソフトは Adobe GoLive です。



ーーー8/22ーーー 犬の打ち水

 どうにも暑い日が続いている。工房は標高625メートルの場所にあるので、東京など大都市に比べれば、標高差だけでも4度くらいは気温が低いはずだ。しかし、それでも日中の暑さはたまらない。すでに午前中に、窓を開け放した工房の室内が、32度くらいになっている。


 この暑さは、工房の番犬「オルフェ号」にとってもつらいようだ。真っ黒な毛皮をまとっているのだから、並大抵の暑さではないだろう。昼の間じゅうハアハアと荒い息づかいをしている。

 そのオルフェが、「打ち水」をして涼をとっているのではないかという疑問が生じた。ときどき、犬小屋の前のテラスが濡れているのだ。たまたま水の容器に足をひっかけて、水が周囲に飛び散ったものなのか、それとも意図的に撒いているのか。どちらなのかは分からないが、そんな状況がしばしば見受けられた。

その疑問にピリオドを打つ日が来た。目撃したのである。

 暑さでイライラが嵩じた様子のオルフェであった。その彼が、水の入った容器に前足を入れて、水をかき出したのだ。炎天下で暑くなったテラスに水を撒いたのである。ちゃんと「打ち水」だったというわけだ。

 ヨーロッパでは日本の打ち水の習慣が評価され、生活に取り入れられているとか。エアコンに頼ったりしないで、自然な冷却効果を取り入れようというわけ。それは良いことだと思う。しかし、打ち水の先進国である日本では、犬でもやっている!?。



ーーー8/29ーーー ティン・ホイッスル

 ティン・ホイッスルなる楽器をご存知だろうか。金属の管にプラスチックのマウスピースが付いた、安っぽいと言われても仕方がないような、簡単な構造の笛である。しかし、アイルランド民謡の演奏には欠かせない楽器となっている。映画「タイタニック」のテーマに使われていると言えば、その音色を思い出す方もいるだろう。

 スタンリー・キューブリック監督の映画「バリー・リンドン」のテーマ曲にもこの楽器が使われている。私は初めてその曲を聞いたとき、その音色からケーナではないかと疑った。もしそれがケーナであれば、ちょっとした話のタネになると思った。

 私のケーナの師匠である友人のS氏によると、欧米人(白人)はケーナの音色に魅力を感じないという。それはあくまで氏の個人的見解だが、実にきっぱりと言ってのけるのである。どうやら白人の前で演奏をして受けなかったという、悲しい実体験も根拠の一つらしい。

 もしバリー・リンドンのテーマにケーナが使われているとしたら、S氏の見解に一石を投じることになる。氏のあまりにもきっぱりとした言い方を思い出すにつれ、ちょっと意地悪を試みたくなった。私はインターネットを使って調べてみた。

 調べた結果、その楽器はケーナではなくてティン・ホイッスルであった。そこで初めてティン・ホイッスルなるものを知った。なんとも簡単な楽器で驚いた。まるで子供のおもちゃのようである。しかし、こんな説明書が気を引いた「誰でも簡単に音が出るし曲も吹ける。しかし、高度なテクニックを身につければ、奥深く多彩な表現が可能となる、魔法の笛である」。

 価格は1000円程度と、楽器とは思えない安さであった。試しに一本買ってみた。二年ほど前のことである。笛と楽譜とCDがセットになっているものを入手したので、すぐにチョロリと演奏できた。

 一見単純で簡単なものほど、長続きしないものである。この笛もすぐに飽きてしまった。ケーナのように、まともに音が出るまでに四年くらいかかる楽器は、苦難の道ではあるが、上達を励みにして長い付き合いとなる。それに対して、簡単に演奏できる楽器は、「はいそれまでよ」となり易い。身近に仲間がいて、一緒に楽しめれば事情も違うだろうが、一人ぽつねんとやる身では、モチベーションが維持できない。

 そんな具合で、ずうっと放ったままになっていた。

 この夏、例の山小屋(→参照)で東京芸大の学生たちと交流を持った。その中に、アイリッシュ・ミュージックのバンドを組んでいる連中がいた。リーダーの担当はティン・ホイッスルであった。さすがは芸大生である。みごとなバンド演奏で、楽しめた。そして私のテイン・ホイッスルに対する興味も、くすぶり出した。

 イベントが終わって数日経ってから、メールでバンド・リーダーに問い合わせをした。どのようにアプローチをしたら、この楽器を楽しめるかという問いである。それに対して、実に行き届いた返事が帰って来た。こんな中高年おやじの気まぐれな趣味に、よくもきちんと対応してくれるものだと感心した。

 CDや楽譜について、いろいろ紹介してもらった。しかし、一番良いのは実際に演奏しながら指導を受けることのようである。次に会う機会を楽しみにしながら、この楽器も練習してみよう。いい歳こいて浮気性なのは恥ずかしい限りだが、馴染みのケーナやサンポーニャに見捨てられないよう気をつけながら、ティン・ホイッスルにも親しんでみたいと思う。




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